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真理と悟りについて

朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり。これは論語にある言葉で、朝真理を聞いて悟ることができれば夕方死んでも構わないという意味だ。孔子はそれほどの熱意を持って日々真理を探究していたのだろう。孔子には及ばないかも知れないが、私にだって世界の真理について知りたいという欲求がある。おそらく誰にだってそういう欲求があるから、論語のこの言葉は有名なのだろう。しかし真理とはどういうものなのだろうか、また真理を悟るとはどういうことだろうか。この問いに答えることは真理を探究する上で必要な前提だと思うので、考えてみたい。

まず私が思うに、真理は私たちの作為・状態とは無関係に存在するもののはずである。だから真理は作り出せるものではないし、真理を独り占めすることもできない。真理は私たちを取り巻いている世界に常に存在している。いやそれどころではなくて、私たち自身真理の一端であるはずだ。なぜなら私たちも世界のひとかけらなのだから。ということは真理から疎外されるということだってないはずで、真理に至るとか真理を悟るとかいう考えはおかしなことに思えてくる。

この問題は、真理が存在することと真理を理解することとは違うとわかれば解決する。真理を本に例えれば、真理が存在するということは本があるということであり、真理を理解するとは本の内容を知るということである。本を読む前から本の内容は決定しているが、だからといって本を読む必要がないとは言えまい。内容を理解するためには読まなければならないのだ。そしてそれは真理の場合も同じである。真理は私たちを取り巻いている、いやそれどころか私たち自身なにかしらの真理を体現しているとしても、それと真理を理解することは違うのだ。真理が存在することはわかっていても、どのような真理であるのかは認識し、理解して初めてわかることだ。個々の真理について言えば、私たちはある真理を認識し、理解して初めてその真理が存在することも知るのだ。こう考えれば真理を悟るという表現もおかしいことではない。

それではもう一度真理そのものについて考えてみたい。まず真理がある場所は私たちを取り囲む世界と私たち自身のうちである。だが真理とはそれらそのものではない。というのは真理は恒常不変なものであるが、世界と私たち自身は生々流転しているからである。では常に流転している世界と私たち自身のうちに不変なものなどあるのだろうか。実はあるのだ。それは世界と私たち自身の本質的な在り方である。例えば世界と私たち自身の本質的在り方とはそれらは流転するということである。万物は流転しても、万物は流転するという本質はずっと変わらないのだ。つまり真理とは世界と私たちの本質的な在り方についての言明のことを言うのだ。

最後に真理を悟るということについて考える。先に述べたように誰でもが真理を体現している。だが真理をそれと認識し理解して表現することは誰もがしていることではない。むしろそんなことができるのはごく少数の人だけだ。ではなぜ真理を認識すること、真理を悟ることは難しいのだろうか。それは人間は自分の想像を超えたものについて理解することは難しいからではないだろうか。もう少し具体的に言うと事物の本質的な在り方についての想像力が必要とされるからではないだろうか。人間が真実を探り当てたとわかるときは、自分の心に浮かんだ考えと現実世界の事象が合致していることがわかった時だろう。そして探り当てた真実が事物の本質的な在り方についてのものだった場合を真理を発見したというのだ。つまり人間が真理を発見するためには事物の本質的な在り方について仮説を持たなくてはならないということだ。ショーペンハウアーが言うように人間の能力は他の動物と同じように生命をささえていくためにのみ工夫されているから、生きていく上で必要なことである生々流転する事物について認識することもそれらについて着想を持つことも容易である。しかし生きて行く上では必ずしも必要とは言えない不変の真理については、ルーペで天体観測しようとするようなもので着想を持つことすら難しい。着想を持つことさえもできなければ、真理が体現されている世界の中にいても、現実とすりあわせたり比較したりすべき真理候補が自分のうちにないわけだから、真理を探り当てることはほとんど不可能に近い。比喩すれば、世界という真理のありかが書いてある地図があっても自分がどこにいるか知らず、どこへ行くべきかわからないようなことだ。以上に述べた理由で真理は路上にあるが、それを捉えることができるものは少ないのである。