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クリスマス前にあわてて神を駁す

考えたこと

神は信じる者を救わない、と私には思える。

信仰者は神によって救われていると信じているが、実は信仰者を救っているのは神ではない。

それは信仰者自身である。

神などどんな名前の何者でもいいのだ。

信仰するという行為こそが信徒の運命を決めてきたのだ。

ユダヤ教の神がヤハウェではなくても、信仰する人と信仰内容がユダヤ教と同じならその宗教とそれを信じる信徒の運命は同じであっただろう。

重要なのは信仰者が信仰していることである。

宗教において神など飾りに過ぎない。

私が思うに、神は人間に何の関与もしないのだ。

指示も救済も一切行わない。

何かしらの成果をもってある教えを正しいと信じ、正しい教えを啓示できるのは神だけだと主張するものもいる。

しかしこの理屈はまったく違う宗教を信じている人によっても使われるし、同じ宗教を信じていてもまったく功徳がない人もいるので腑に落ちない。

第一それは結果が出てから正しいとわかると言ってるのと同じなので宗教界においても正しいものが勝つのではなくて勝ったものが正しいと言っているようにしか聞こえない。

いろいろ書いたが私はことさら神を否定したいわけではない。

神という概念が人間がその不完全さから要求せざるを得なかったものだとしても、それとは別の本当の「神」が存在したとて不思議はないと思っている。

ただ人間が説いているままの神がいるとは思えないだけだ。

キリスト教の神は意地悪である。

「悪い時代はしるしを求める」というが、本当に心から信じられるような奇跡を見たら私だって喜んでキリスト教徒になってやる、いや信徒にならさせていただくのに、私の前では奇跡を起こしてくれない。

昔には何度も起こしているのにもかかわらずである。

奇跡を現前に見る機会が与えられる者と機会すら与えられない者がいるというなんという神の不平等さであろうか。

もっとひどい話がある。

ある牧師から聞いた話だが、キリストの教えを生まれて死ぬまで一生聞く機会さえなかったものもみな地獄に堕ちることになっているらしい。

なんという不条理であろうか。

「不条理なるが故に我信ず」なんて気の利いたこと言ってもその不条理で地獄に堕ちたものは救われない。

最後に、ここが重要なところだが、キリスト教に難癖をつける理由はクリスマスに見るカップルがうらやましいからではない――そう、決して。