哲学の正体に関する試論―「べき」はどこからでてくるのか―

哲学とは真理を探究することであり、真理とは世界を鏡のように映したものだとすると、哲学は世界の鏡である必要がある。

そして哲学が世界の鏡ならば、哲学はどこまでも現状追認的なものになり、世界はこうなっているのだという説明しかできないはずだ。

しかし実際は哲学には世界の説明の他にも、こうなる「べき」という規範やこうする「べき」という義務が述べられていることがほとんどである。

この哲学の「べき」の由来はどこか、というのが今回のテーマである。

まず一般に「べき」というのは実際の行為・状態と模範つまり現実と理想とを照らしあわせて初めて言えることであり、この事情は哲学においても同じだろう。

例えばプラトンは堕落したアテナイの政治状態に対して哲学者が王となるべきだという哲人王の思想を説き、ニーチェは現実の奴隷道徳に生きる人に対して未来の超人を目指すべきだという超人思想を説いたというように。

哲学の「べき」も理想と現実を対立させるところから生じるようだ。

では、哲学者は理想と現実をどう扱ってきたのだろうか。

私はこう思う。

哲学者は理想を現実の真の姿として扱ってきた。

そして理想に対して現実を仮のあるべきではない世界として描いてきた。

その具体例をここに細かく挙げたりはしないがニーチェプラトンによる彼らの現実への糾弾を思い起こして欲しい。

哲学とは真理を探究することではなく、現実を映す鏡でもなかった。

そうではなく、哲学とは哲学者が理性によって自身の希望を「べき」へと変装させる手続きであった。

実は哲学は世界の説明と称して願望を語っていたのだ。

いつだって人間の「こうあって欲しい」という気持ちは「こうあるべき」という義務感へと容易に移行する。

そして哲学者の希望は、今の現実は仮の姿であって、自分の理想こそが事物の真の姿であって欲しいという願いである。

哲学は哲学者のそういう願望に端を発していて、その願いこそ哲学の「べき」が生まれた所以である。