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書評 『反哲学入門』木田元

書評

口述されたものをまとめた本ということらしく、とても読みやすかった。

内容を大雑把に説明すると、プラトン以降ニーチェより前までの哲学は、超自然的原理を設定しそれを参照して自然を見る立場であり、そういう哲学は自然に生きたり考えたりすることを否定している。

そして著者はそういう哲学に反対していてそれが反哲学なのだという。

もう少しくだいて言えば、反哲学とは自分たちが存在するものの全体の中にいながらその全体を見渡すことのできる特別な位置につくことができるいう考えを批判するものである、ということだ。

そこを読んだら、ニーチェがカント哲学の先天的総合判断など可能であるはずがない、と主張していたことを思い出した。

ソクラテスがあれだけ饒舌な皮肉屋なのに腹の中に言いたいことなんて一つもない、というくだりも言われてみればそうだよなあと同感した。

普通皮肉というのは言いたいこととあえて逆のことを言って、言いたいことを強調する表現方法なはずだが、ソクラテスには積極的に知っているといえることなどひとつもないのだから、片っ端から否定していく。

そこがソクラテスのおもしろいところだし、それを的確に捉えた表現も納得だった。

ニーチェのことが書いてある第五章が特に興味深かった。

しかしニーチェをどう解釈するかはほんとに幅があるって言うか、人によってかなり違うと今更ながら感じた。

ニーチェの文章の一つ一つは彫り込まれたように確実で美しいのだが、著作全体の印象となると読む人によってまるでちがったものを与えてもおかしくない。

ニーチェ著作の多くはまとまった論文形式ではなく、断片的なアフォリズム形式になっているということがその理由の一つだ。

またニーチェの思想自体が時間とともに変化していくので、どの時点のニーチェを捉えるかによって解釈が違ったものとなるのだ。

そういう点ではニーチェは20代で主著を書いて以降の著作はその補足としたショーペンハウアーと実に対照的だと思った。

 

反哲学入門 (新潮文庫)

反哲学入門 (新潮文庫)

 

 

クリスマス前にあわてて神を駁す

考えたこと

神は信じる者を救わない、と私には思える。

信仰者は神によって救われていると信じているが、実は信仰者を救っているのは神ではない。

それは信仰者自身である。

神などどんな名前の何者でもいいのだ。

信仰するという行為こそが信徒の運命を決めてきたのだ。

ユダヤ教の神がヤハウェではなくても、信仰する人と信仰内容がユダヤ教と同じならその宗教とそれを信じる信徒の運命は同じであっただろう。

重要なのは信仰者が信仰していることである。

宗教において神など飾りに過ぎない。

私が思うに、神は人間に何の関与もしないのだ。

指示も救済も一切行わない。

何かしらの成果をもってある教えを正しいと信じ、正しい教えを啓示できるのは神だけだと主張するものもいる。

しかしこの理屈はまったく違う宗教を信じている人によっても使われるし、同じ宗教を信じていてもまったく功徳がない人もいるので腑に落ちない。

第一それは結果が出てから正しいとわかると言ってるのと同じなので宗教界においても正しいものが勝つのではなくて勝ったものが正しいと言っているようにしか聞こえない。

いろいろ書いたが私はことさら神を否定したいわけではない。

神という概念が人間がその不完全さから要求せざるを得なかったものだとしても、それとは別の本当の「神」が存在したとて不思議はないと思っている。

ただ人間が説いているままの神がいるとは思えないだけだ。

キリスト教の神は意地悪である。

「悪い時代はしるしを求める」というが、本当に心から信じられるような奇跡を見たら私だって喜んでキリスト教徒になってやる、いや信徒にならさせていただくのに、私の前では奇跡を起こしてくれない。

昔には何度も起こしているのにもかかわらずである。

奇跡を現前に見る機会が与えられる者と機会すら与えられない者がいるというなんという神の不平等さであろうか。

もっとひどい話がある。

ある牧師から聞いた話だが、キリストの教えを生まれて死ぬまで一生聞く機会さえなかったものもみな地獄に堕ちることになっているらしい。

なんという不条理であろうか。

「不条理なるが故に我信ず」なんて気の利いたこと言ってもその不条理で地獄に堕ちたものは救われない。

最後に、ここが重要なところだが、キリスト教に難癖をつける理由はクリスマスに見るカップルがうらやましいからではない――そう、決して。

理想の暗黒面

考えたこと

理想はどこから生まれるか?――現在の不足感からだ。

人間はありのままの現実に不満だから理想を必要とする。

そして理想とは奪うものである。

理想は今ある現実を犠牲にして将来の約束を与えるが、捧げた現実は戻らず約束も果たされることはない。

もし理想が最高の状態のことだとしたら、人には理想を実現する能力などない。

なぜなら人は己自身を知らないからだ。

己自身を知らない者に自分の最高の状態がわかるはずがない。

欲していることが本当に自分にとっていいことなのかさえ人間にはわからないのだ。

そもそも生きている人間は定常状態になることもない。

実現不可能と知っても人は理想の実現への期待を捨てることができない。

理想を見続けると現実が見えなくなるし、そうなることをこそ人は望むからだ。

悪魔は人を欺くために天使の姿をしているのだろう。

理想もポジティブな言葉に隠れて現実の上に詛いをかけている。

「思う」と「書く」は違う

考えたこと

頭の中でわかったつもりになってることも、いざ言葉にして表現してみようとするとなかなか難しい。

難しい原因の一つは、頭の中で考えるときの論理のレベルと表現するとき必要な論理のレベルにギャップがあるからではないかと思う。

表現するとき必要な論理の方がはるかに高いレベルのものを要求されるのだ。

そう思ったのは、私の場合頭で考えるときの論理が非常に粗雑らしくて、頭で考えていたことを他の人に伝わるようなレベルまで持っていくのは非常に骨が折れるからだ。

いや実際は骨が折れるどころではなくて、表現する際に納得できるレベルまで持っていくことができないことも多い。

頭ではわかっていたつもりのことも書いてるうちに論理の破綻や支離滅裂さに気づき書き進められなくなるのだ。

こうなると「思う」ということは「書く」ということともっと根本的に違うとも思えてくる。

実は思うということは非連続な閃きの集まりのようなものなのかも知れない。

そしてそれぞれの閃きと閃きの間には飛躍があるのだが、その飛躍は思っているときにはなかなか自覚できない。

それが自覚されるのは思ったことを表現するときである。

書くということは閃きと閃きの間にある飛躍を言葉の論理のレールでつなぐことなのだ。

だがその際にうまくレールでつなぐことができない場合がある。

それには閃き自体が間違っていた場合もありうるだろうが、飛躍があまりに大きすぎる場合という可能性もある。

そしてどの程度の飛躍までを言葉の論理で補うことができるか、ということがその人の表現の技量を示すのである。

――ということを考えた。

上の意見に賛同してくれない人もいるだろうが次の意見にはきっと共感してくれると思う。

思っていることをうまく表現できないことほど、もどかしいことはない。

真理と悟りについて

考えたこと

朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり。これは論語にある言葉で、朝真理を聞いて悟ることができれば夕方死んでも構わないという意味だ。孔子はそれほどの熱意を持って日々真理を探究していたのだろう。孔子には及ばないかも知れないが、私にだって世界の真理について知りたいという欲求がある。おそらく誰にだってそういう欲求があるから、論語のこの言葉は有名なのだろう。しかし真理とはどういうものなのだろうか、また真理を悟るとはどういうことだろうか。この問いに答えることは真理を探究する上で必要な前提だと思うので、考えてみたい。

まず私が思うに、真理は私たちの作為・状態とは無関係に存在するもののはずである。だから真理は作り出せるものではないし、真理を独り占めすることもできない。真理は私たちを取り巻いている世界に常に存在している。いやそれどころではなくて、私たち自身真理の一端であるはずだ。なぜなら私たちも世界のひとかけらなのだから。ということは真理から疎外されるということだってないはずで、真理に至るとか真理を悟るとかいう考えはおかしなことに思えてくる。

この問題は、真理が存在することと真理を理解することとは違うとわかれば解決する。真理を本に例えれば、真理が存在するということは本があるということであり、真理を理解するとは本の内容を知るということである。本を読む前から本の内容は決定しているが、だからといって本を読む必要がないとは言えまい。内容を理解するためには読まなければならないのだ。そしてそれは真理の場合も同じである。真理は私たちを取り巻いている、いやそれどころか私たち自身なにかしらの真理を体現しているとしても、それと真理を理解することは違うのだ。真理が存在することはわかっていても、どのような真理であるのかは認識し、理解して初めてわかることだ。個々の真理について言えば、私たちはある真理を認識し、理解して初めてその真理が存在することも知るのだ。こう考えれば真理を悟るという表現もおかしいことではない。

それではもう一度真理そのものについて考えてみたい。まず真理がある場所は私たちを取り囲む世界と私たち自身のうちである。だが真理とはそれらそのものではない。というのは真理は恒常不変なものであるが、世界と私たち自身は生々流転しているからである。では常に流転している世界と私たち自身のうちに不変なものなどあるのだろうか。実はあるのだ。それは世界と私たち自身の本質的な在り方である。例えば世界と私たち自身の本質的在り方とはそれらは流転するということである。万物は流転しても、万物は流転するという本質はずっと変わらないのだ。つまり真理とは世界と私たちの本質的な在り方についての言明のことを言うのだ。

最後に真理を悟るということについて考える。先に述べたように誰でもが真理を体現している。だが真理をそれと認識し理解して表現することは誰もがしていることではない。むしろそんなことができるのはごく少数の人だけだ。ではなぜ真理を認識すること、真理を悟ることは難しいのだろうか。それは人間は自分の想像を超えたものについて理解することは難しいからではないだろうか。もう少し具体的に言うと事物の本質的な在り方についての想像力が必要とされるからではないだろうか。人間が真実を探り当てたとわかるときは、自分の心に浮かんだ考えと現実世界の事象が合致していることがわかった時だろう。そして探り当てた真実が事物の本質的な在り方についてのものだった場合を真理を発見したというのだ。つまり人間が真理を発見するためには事物の本質的な在り方について仮説を持たなくてはならないということだ。ショーペンハウアーが言うように人間の能力は他の動物と同じように生命をささえていくためにのみ工夫されているから、生きていく上で必要なことである生々流転する事物について認識することもそれらについて着想を持つことも容易である。しかし生きて行く上では必ずしも必要とは言えない不変の真理については、ルーペで天体観測しようとするようなもので着想を持つことすら難しい。着想を持つことさえもできなければ、真理が体現されている世界の中にいても、現実とすりあわせたり比較したりすべき真理候補が自分のうちにないわけだから、真理を探り当てることはほとんど不可能に近い。比喩すれば、世界という真理のありかが書いてある地図があっても自分がどこにいるか知らず、どこへ行くべきかわからないようなことだ。以上に述べた理由で真理は路上にあるが、それを捉えることができるものは少ないのである。

永遠のテーマ 人生の意味

考えたこと

人生に意味はあるのかないのか、あるとしたらその意味は何か、それは人間にとって永遠のテーマである。以下に私なりに考えたことを述べてみたい。

まずこれだけはたしかに言えることだが、人生に意味を見出したから生まれた人などいない。しかし人生は最初から無意味なのだろうか。あるいは、生まれたときは無意味でも、人間は人生に意味を付与することができ、そこからは人生は意味があるのだろうか。

私には人生が最初から最後まで無意味とは思えない。人生が全く無意味ならば、私たちは自分の人生をそのように感じるはずだが、私たちは自分の人生が無意味だとは思わない。もし人生が最初から最後まで無意味ならば、人生などどうでもいいものであるはずだが、実際は私たちにとって自分の人生以上に関心を引くものはない。また人間には無意味なものを愛することはできないが、人間は自分の人生に愛着を持つ。だから私は人生には何かしら意味があるのだろう、と思う。

では人生に意味があるとして、それは人間自身が与えたものなのだろうか。しかし私は人間が人生に意味を付与することができるとは思えない。というのも意味というのは、共通して通用しなくてはならないと思うからだ。例えば赤信号の意味は「止まれ」であり、それを知っている人には共通して通用しなくてはならない。だが、人生を知らない人などいないのに、人間が人生に与える意味ほどばらばらなものはない。ある人は享楽のうちに人生の意味を見出し、ある人は名誉を得ることこそ人生の意味だと言い、ある人は真理の探求こそ人生の本意だと思っている。他にも種々様々な人がそれぞれの意味を人生に与えていて、人生の意味は人の数だけ違うということになってしまっている。私には、それらは本当の意味での「意味」ではないように思える。だから人生に意味があるとしてもそれは人間が付与したものではないようだ。

もちろん私も価値ならば意味とは違い、人によって異なっていてもいいと思う。だが難儀なことに、私は人間に人生の価値を付与できるとも思えない。ある人生を価値あるものとするということは、そうでない人生の価値を認めないということだ。この人生には生きる価値があり、あの人生は生きる価値がないなどと人間に決められることだろうか。

今まで述べたことをまとめると、人生に意味はあるがその意味は人間一人一人が人生に与えたものではない、ということだ。人生に意味を見出したから生まれてくる人はいないし、知性が発達してから自分の人生に与えた意味も本当の人生の意味ではないが、実感として人生に意味はあるのだ。

しかし本当の人生の意味は言語化できるほど明確に自覚されることはないだろう。なぜかというと、人生の意味を明確に自覚している人がいるとして、その人はその人生の意味が失われた場合には、自ら生に別れを告げるだろうが、私たちはそのような場合の具体的原因すべてに共通するところがあるわけではないのを知っているからだ。もちろん生きる意味がなくなったと思って自殺する人はいるし、その場合の自殺の原因はすべて人生の意味を失ったことなのだ。だが、その自殺した個々の人が失ったと感じた人生の意味をそれぞれ挙げていっても、それらすべてに共通するところなどない。そういうわけで、あらゆる人生に共通する自覚された意味はないのだと思う。

また人間が人生の意味を明確に言語化できないのは、人生を常に変化の過程としてしか感じられないからなのかも知れない。ニーチェはこのように言っている。「経過の全体を症候学的に総括するすべての概念は定義することはできない」。たしかに人生はそれが続いている限り決して確定した形態をとることはなく、多種多様な行為・状態の総体であり続ける。だから人生の意味を言語化することは不可能なのかも知れない。

人生の意味を探求することは自意識を持つすべての人間の永遠のテーマであろう。ここではそのテーマに対する考えの一つとして私の意見を述べた。たとえ言語化できないとしても、人生に意味はあるのだというのが、とりあえずの私なりの結論である。

ショーペンハウアーの継承者としてのニーチェ

考えたこと

ニーチェは青年時代にショーペンハウアーから強い影響を受けたけれど、最終的にはその影響から脱したと一般に言われている。ニーチェの思想を解説したものも、その大部分は、ほとんど(あるいは全く)ショーペンハウアーについて触れられていない。でも個人的には、それはちょっと違うんじゃないかと思っている。ニーチェショーペンハウアーの真の継承者だったのではないか。アリストテレスプラトンの哲学を批判しつつも、それを発展させ受け継いだというような意味で、である。

私は哲学を専門に勉強したことがあるわけではなく完全にディレッタントなので、これから述べることにどこまで客観性があるかわからない。だが以下にショーペンハウアーからニーチェに受け継がれた(であろう)ことを書いてニーチェショーペンハウアーの継承者であったことを示してみたいと思う。

第一に主意主義ショーペンハウアーが、非合理的な意志が世界の根源であると喝破したのは有名だ。ニーチェも明らかに、合理的な理性よりも、非合理的な意志の方が根源的であると見ている。これは明確にショーペンハウアーの影響といっていいだろう。

第二に生物学主義。ショーペンハウアーは次のように言っている。「いかなる動物も明らかに、餌をみつけて手に入れる目的のためだけに自分の知性を具えているので、当然、その知性の及ぶ範囲も限られている。この事情は、人間においても、ことならない」。これは認識作用を生きるための一手段と見る生物学主義だといえるだろう。ニーチェ思想の生物学主義的傾向はダーウィニズムの影響からだとはよく言われるが、実はその淵源はショーペンハウアーだったかもしれない。

第三に結論や見方をひっくり返しただけのものが多いということだ。いわばニーチェは逆立ちしたショーペンハウアーである。第一に挙げた主意主義の帰結として、ショーペンハウアーニーチェは全く逆の結論を引き出している。ショーペンハウアーは意志を否定しなければ救いはないと考えたのに対して、ニーチェは強く意志を肯定して生きていくべきだとした。そしてニーチェショーペンハウアーのような考え方は弱者の反感(ルサンチマン)が偽造した理想に他ならないと指摘する。また芸術についての見方も、ショーペンハウアーが芸術を生の「鎮静剤」と見るのに対して、ニーチェは「刺激剤」と見ていてこれも正反対だ。しかし、これらのひっくり返しも元のショーペンハウアーの説があったからこそではないだろうか。方向性を逆に取ることによって、ニーチェは自身の活路を見出したように思えてならない。

第四に、ニーチェ永遠回帰説はショーペンハウアーの物自体としての意志説と似たものになってしまうということだ。ショーペンハウアーには、時間と空間は人間が認識する際の形式であり、物自体としての意志にはそもそも時間の概念などない、という考えがあり、一切のものはその無時間的な意志から現象してくるという。つまり物事の本質は永遠に変わらないということになる。社会の進歩とか人間の性格の変化というものを認めないのだ。

これに対してニーチェは各時代に特有のものがある、歴史的運動があるとしている。プラトンから始まり、キリスト教へ引き継がれ、近代において民主主義という形となって現れた「ヨーロッパのニヒリズム」というのが典型的な歴史的運動である。そしてニーチェには超人思想とともに有名な永遠回帰という考えがある。永遠回帰とは、過去に起こった一切は細分違わず無限に繰りかえされるという主張である。これはニーチェが直覚したことなので、いろいろ理屈をつけようと思えばつけられるが、ニーチェにとって世界はそういう風になっていると思えたのだとしか言いようがない。

さて、以上述べたニーチェの二つの主張を総合すると、歴史的運動がありそれは何度も何度も全く同じかたちで繰りかえされることになる。つまり、歴史的運動というものも究極的には、己自身を目標にして、己自身が己自身に返るという、本質的に同一なものの運動である。ここに至ってニーチェの考えは、ショーペンハウアーの考えと同じようなことになってしまっていると思う。ショーペンハウアー流に比喩すると、ニーチェの世界もその時々によって脚本や仮面は変わっても演じている役者たちは変わらない世界である、ということになっているのではないだろうか。