因果応報説の起源についての仮説
この記事でこれから述べることは、因果応報説の起源についての仮説である。
最初に因果応報がどういうものか定義すると、原因として善い行いをすれば善い結果が得られ、悪い行いをすれば悪い結果をもたらすとする考え方である。
この考え方は多くの宗教や道徳で見られるものなので知らない人はいないだろう。
私は因果応報説は親子関係に起源を持つのではないかと思っている。
なぜなら親子関係におけるほど因果応報説が通用する場合はないように思えるからだ。
子供がよいことをしたなら親に褒められ、わるいことをしたなら叱られる。
これほどわかりやすい因果応報はないであろう。
そしてこの親子関係における賞罰行為を一般に押し広げたものが因果応報説であるというのが私の仮説だ。
子供にとって親はいわば世界であり、しかも物事の善悪の判断を示す存在でもあり、子供は親に従うことによってのみ生きて行くことができる。
だから子供は親子関係の規範を強力に身につけることになり、成長しても親子関係で培われた価値観から脱却することはない。
ある価値観を以て世界を眺めるとその価値観に合致するものしか見えなくなることは多々あることであり、まして人間社会には因果応報説に則る作り話や美談が溢れている。
だから善いことをしたら善いことが起こり、悪いことをしたなら悪いことが起こるという印象は刷り込まれ強められていく一方である。
これらのことにより因果応報は常に成立すると思い込んでしまうのだ。
もちろんこの段階で因果応報における結果や報いをもたらすとされるものは、もはや親ではない。
善にしろ悪にしろ報いをもたらすのは宗教なら神であり道徳なら世界の「法則」であるということになろう。
ここまで来ると因果応報とはいわば神あるいは世界が親代わりの立場に立つしつけであると解釈できる。
ショーペンハウアーの「人生はどこまでも我々にほどこされる厳格な躾と看做さるべきものである」という考えもこの解釈と同じ起源を持つものであろう。
今更ながらリメイクDQ8をクリアした感想
発売日に買ってラスダン直前で何となく飽きてしまい放置してたDQ8をクリアした。
もう発売から一年以上経つから今更ネタバレしても誰も怒らないだろう。
だからネタバレありで追加要素について感想を書きたいと思う。
いきなりエンディングについて言うと、リメイク版だとゼシカと結ばれるエンディングが追加されている。
ミーティア姫と結婚する通常のエンディングが、主人公の出生の秘密を知る前と知った後で2種類あるのに対応して、ゼシカエンドも2種類ある。
出生の秘密を知る前の場合、チャゴス王子との結婚式から逃げ出したあと、馬車の中でミーティア姫に主人公には想っている人がいるのでしょう的なことを質問された時に、はいと答えるとゼシカと旅立ちエンドになる。
ゼシカと旅立ちエンドはスタッフロールのあとに、主人公とゼシカの二人旅の一場面がちょこっと描かれて終わりで、正直たったこれだけかと思った。
出生の秘密を知った後の場合は、ミーティア姫とチャゴス王子の結婚前夜にクラビウス王にアルゴンリングを見せるのが第一のフラグとなる。
そして二人の結婚に異を差し挟み、尚且つ自分にはミーティア以外に想っている人がいると答えれば、ゼシカとの結婚エンドになる。
この時クラビウス王にお前は自分が何を言って何をしようとしているのかわかっているのかというような説教をされることになるのだが、自分でプレイしながらもっともな説教だと感心してしまった。
たしかに近衛隊長になったとは言え、一兵士の主人公が王族の結婚式をやめさせようとして、さらに実はあなたの国の王位継承権があるなんて言ったら下手したら消されかねない。
で、ゼシカと結婚エンドだが、これはミーティア姫とチャゴス王子の結婚式が両国の王の合意によって取り消しとなり、そして両王の計らいにより主人公とゼシカの結婚式となるというもの。
こっちはしっかりゼシカの気持や主人公の行動が描かれていてボリュームがあった。
しかしいろいろ疑問はある。
まずクラウビウス王にミーティア以外の思い人がいるとは言ったがそれがゼシカだとは言わなかった気がすることなのだが、それはまあトロデ王にはミーティアでなければゼシカ以外にないとわかったのだろうか。
もう一つ、ゼシカが主人公のことを特に好いている描写があったかどうかがプレイヤーの私の記憶にないのも疑問である。
ゼシカ曰く、最初は主人公のことを頼りなく思っていたが、杖に操られたゼシカを助けたときから主人公に対して想いを寄せるようになったということだが、特にゼシカの態度が変わった記憶はなかった。
仲間との会話はあんまり見なかったのでわからなかったのだろうか。
それにしても、どちらのゼシカエンドについても言えることだが、ミーティア姫が可哀想だなと思った。
というのはミーティア姫が主人公に対して特別な想いを抱いているのはプレイしていてわかったからだ。
その他の追加要素についても短いが書くと、仲間が追加されたことについてはリメイクDQ8でモリーとゲルダが仲間にできるようにするならリメイクのDQ7でフォズを仲間にできた方が正直嬉しかった。
ドルマゲスの追加ストーリーはもう少しひねりが欲しかったが、逆に写真クエはちょっとひねりがききすぎてるのが多かった(特に金のスライム)印象。
ジャハガロス関連はなかった方がよかったかも。
マルチェロは行方不明のままの方がまだ威厳があった気がしないでもないからだ。
DQ9のサンディがフィールド上にでることがあるらしかったが、結局出会えずじまいだったのは残念。
フルボイス化についてはボイスを飛ばしてしまうことがほとんどだったのでイベントシーン以外のボイスはいらないのかもと思った。
最後に総合的な感想だが、リメイク前のDQ8は3,4周するくらいはまったが、今作は写真クエストなど追加要素が増えすぎて何周もしようという気にはなれなかった。
だが、一つのセーブデータを極めようというモチベーションは結構出てレベル80近くまで上げてしまった。
リメイクとしてレベル上げが非常に楽だったのは嬉しかった。
今からDQ8をやりたいのならさくさく進めるリメイク版の方がいいのかもしれない。
哲学の正体に関する試論―「べき」はどこからでてくるのか―
哲学とは真理を探究することであり、真理とは世界を鏡のように映したものだとすると、哲学は世界の鏡である必要がある。
そして哲学が世界の鏡ならば、哲学はどこまでも現状追認的なものになり、世界はこうなっているのだという説明しかできないはずだ。
しかし実際は哲学には世界の説明の他にも、こうなる「べき」という規範やこうする「べき」という義務が述べられていることがほとんどである。
この哲学の「べき」の由来はどこか、というのが今回のテーマである。
まず一般に「べき」というのは実際の行為・状態と模範つまり現実と理想とを照らしあわせて初めて言えることであり、この事情は哲学においても同じだろう。
例えばプラトンは堕落したアテナイの政治状態に対して哲学者が王となるべきだという哲人王の思想を説き、ニーチェは現実の奴隷道徳に生きる人に対して未来の超人を目指すべきだという超人思想を説いたというように。
哲学の「べき」も理想と現実を対立させるところから生じるようだ。
では、哲学者は理想と現実をどう扱ってきたのだろうか。
私はこう思う。
哲学者は理想を現実の真の姿として扱ってきた。
そして理想に対して現実を仮のあるべきではない世界として描いてきた。
その具体例をここに細かく挙げたりはしないがニーチェやプラトンによる彼らの現実への糾弾を思い起こして欲しい。
哲学とは真理を探究することではなく、現実を映す鏡でもなかった。
そうではなく、哲学とは哲学者が理性によって自身の希望を「べき」へと変装させる手続きであった。
実は哲学は世界の説明と称して願望を語っていたのだ。
いつだって人間の「こうあって欲しい」という気持ちは「こうあるべき」という義務感へと容易に移行する。
そして哲学者の希望は、今の現実は仮の姿であって、自分の理想こそが事物の真の姿であって欲しいという願いである。
哲学は哲学者のそういう願望に端を発していて、その願いこそ哲学の「べき」が生まれた所以である。
今年の目標を掲げる~2017年~
今年の目標は積ん読を消化すること、それにつきる。
本棚の「読んだ本」と「読み返したい本」と「読んでない本」とを見回して、うしろの二つがあまりに多い事に気づいたからだ。
その時本からプレッシャーを感じた。
いや、本からプレッシャーとは書いたが、実際は「買った本を読まなければならぬ」という強迫観念であり、自分の心の内側から来ているものだ。
そうはわかってても胃を握られてるような感覚があった。
古本屋で全巻セットで買った『聲の形』なんてまだ封も開けてない。
キルケゴールの『死に至る病』はちょこっと読んだだけで止まってる。
他にも積ん読はいろいろあるが、手始めに半分くらい読み終わってるショーペンハウアーの伝記から読み始めようかな。
まあ半分読み終わってるって言っても全部で600ページ以上ある大部な本だからいつ読み終わるか分からないけど・・・・・・。
ショーペンハウアー―哲学の荒れ狂った時代の一つの伝記 (叢書・ウニベルシタス)
- 作者: 山本尤,リュディガーザフランスキー,R¨udiger Safranski
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 1990/01
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書評 『プラトン入門』R.S.ブラック
プラトンはこの世界に神の目的や計画が存在することに確信を抱いていて、プラトン哲学は目的論を信条としている、という内容の序論からこの本は始まる。
最近に書かれた本でもないし翻訳されたものだし、読みやすいとは思っていなかったのだが、後半に入ってある難しさが加わる。
その難しさとはプラトンの著作の解説があまりにも肉を削った概説であることだ。
この概説を理解するには解説の対象となっている著作を読んでいることが条件となっている、と言いたくなるほどだ。
むろんこの本はプラトン入門なのだし、そんなことが前提条件になっているとは書いてない。
しかし自分が読んだことのあるプラトンの著作について解説してある部分を読んだときと、読んだことのない著作についての部分とを読んだときとで全く理解できるレベルが違う。
正直、読んだことのない著作の箇所はほとんど頭に入ってこないのだ。
それってプラトン入門という題名としてどうなのだろうと思ってしまった。
この本は今に伝わっているプラトンの対話編で真作とされているもの全てについてそれぞれ解説されているが、解説するのを代表的な著作だけに絞った方がよかったのではないだろうか。
数を絞るかわりに、紹介する内容を詳しく書いてもらった方がわかりやすくなったと思う。
それでもプラトンの生涯については詳しく書いてあったし、ところどころ写真が載っている点も確かに入門向きで興味深かった。
最後にこの本に載っていたプラトンの素敵な言葉を紹介しよう。
「われわれがこの世に生を享けたのは自分一人のためではありません。われわれの祖国や両親や知友たちが、またわれわれの生に与えられた境遇が、われわれを呼び求めているのです」プラトン『第九書簡』
- 作者: R.S.ブラック,R.S. Bluck,内山勝利
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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情報源としての本と判断基準としての現実
真実は人間が認識する以前から存在すると仮定したなら次のことが成り立つだろう。
それは、真実は本以外にも情報源を持つということだ。
逆に言うと本からしかとってこられないような情報は真実でないということでもある。
なぜなら本の記述以外に根拠を持たない情報は現実世界に対応する事実がないからだ。
真実は人間が認識する以前から存在しているとすると、真実は人間とは無関係に現実世界に事実として存在しなくてはならない。
そして現実と照らし合わせて符合する事実がないならば、その記述は真実ではありえない。
つまり本から得た情報はまだ真実であるとは保証されておらず、それは現実と照らし合わせて考える必要があるのだ。
結局のところ、この立場では現実にないことはうそだということになる。
しかしこの「現実にないことはうそだ」という見解も立場を変えると、すなわち人間にとって真実は認識して以降存在するという仮定をするならば常に正しいとも言えなくなる。
というのはその立場に立つなら、私にとって認識されていない情報でも他の誰かにとって認識されていればその人にとって真実として存在していると考えられるからだ。
そもそも最初の仮定で正しいとされた「現実にないことはうそだ」という判断の発言者は神のように現実世界すべてを見渡せる存在でなければならない。
限られた自分の現実しか持てない一人の人間がそのように言ったところで、あなたの現実の範囲にないだけで私の現実にはあるのだとか、あるいはあなたの現実世界と私の現実世界は別世界であるから互いに異なる真実が存在してもいいとかいった反論を受けるだろう。
だからこの立場では「現実にないことはうそだ」という判断は「自分の現実にないことは自分にとってうそだ」と言わなくては正しくない。
そして自分の現実と他人の現実とを直接比較したり交換したりできないから、真実も自分にとっての真実でしかなくなり、真実が必ずしも万人に通用するものではなくなる。
自分にとってうそなことが他の誰かにとっては本当だったり、その逆もありうることになるのだ。
この二つの立場は、絶対主義の立場と相対主義の立場であり、私たち人間はこの二つの立場をケースバイケースで巧みに使い分けているように感じる。
それにしてもこの記事では情報源としての本のあり方について書こうと思ったのだが、あさっての方向に筆が進んでしまった。