ショーペンハウアーの継承者としてのニーチェ

ニーチェは青年時代にショーペンハウアーから強い影響を受けたけれど、最終的にはその影響から脱したと一般に言われている。ニーチェの思想を解説したものも、その大部分は、ほとんど(あるいは全く)ショーペンハウアーについて触れられていない。でも個人的には、それはちょっと違うんじゃないかと思っている。ニーチェショーペンハウアーの真の継承者だったのではないか。アリストテレスプラトンの哲学を批判しつつも、それを発展させ受け継いだというような意味で、である。

私は哲学を専門に勉強したことがあるわけではなく完全にディレッタントなので、これから述べることにどこまで客観性があるかわからない。だが以下にショーペンハウアーからニーチェに受け継がれた(であろう)ことを書いてニーチェショーペンハウアーの継承者であったことを示してみたいと思う。

第一に主意主義ショーペンハウアーが、非合理的な意志が世界の根源であると喝破したのは有名だ。ニーチェも明らかに、合理的な理性よりも、非合理的な意志の方が根源的であると見ている。これは明確にショーペンハウアーの影響といっていいだろう。

第二に生物学主義。ショーペンハウアーは次のように言っている。「いかなる動物も明らかに、餌をみつけて手に入れる目的のためだけに自分の知性を具えているので、当然、その知性の及ぶ範囲も限られている。この事情は、人間においても、ことならない」。これは認識作用を生きるための一手段と見る生物学主義だといえるだろう。ニーチェ思想の生物学主義的傾向はダーウィニズムの影響からだとはよく言われるが、実はその淵源はショーペンハウアーだったかもしれない。

第三に結論や見方をひっくり返しただけのものが多いということだ。いわばニーチェは逆立ちしたショーペンハウアーである。第一に挙げた主意主義の帰結として、ショーペンハウアーニーチェは全く逆の結論を引き出している。ショーペンハウアーは意志を否定しなければ救いはないと考えたのに対して、ニーチェは強く意志を肯定して生きていくべきだとした。そしてニーチェショーペンハウアーのような考え方は弱者の反感(ルサンチマン)が偽造した理想に他ならないと指摘する。また芸術についての見方も、ショーペンハウアーが芸術を生の「鎮静剤」と見るのに対して、ニーチェは「刺激剤」と見ていてこれも正反対だ。しかし、これらのひっくり返しも元のショーペンハウアーの説があったからこそではないだろうか。方向性を逆に取ることによって、ニーチェは自身の活路を見出したように思えてならない。

第四に、ニーチェ永遠回帰説はショーペンハウアーの物自体としての意志説と似たものになってしまうということだ。ショーペンハウアーには、時間と空間は人間が認識する際の形式であり、物自体としての意志にはそもそも時間の概念などない、という考えがあり、一切のものはその無時間的な意志から現象してくるという。つまり物事の本質は永遠に変わらないということになる。社会の進歩とか人間の性格の変化というものを認めないのだ。

これに対してニーチェは各時代に特有のものがある、歴史的運動があるとしている。プラトンから始まり、キリスト教へ引き継がれ、近代において民主主義という形となって現れた「ヨーロッパのニヒリズム」というのが典型的な歴史的運動である。そしてニーチェには超人思想とともに有名な永遠回帰という考えがある。永遠回帰とは、過去に起こった一切は細分違わず無限に繰りかえされるという主張である。これはニーチェが直覚したことなので、いろいろ理屈をつけようと思えばつけられるが、ニーチェにとって世界はそういう風になっていると思えたのだとしか言いようがない。

さて、以上述べたニーチェの二つの主張を総合すると、歴史的運動がありそれは何度も何度も全く同じかたちで繰りかえされることになる。つまり、歴史的運動というものも究極的には、己自身を目標にして、己自身が己自身に返るという、本質的に同一なものの運動である。ここに至ってニーチェの考えは、ショーペンハウアーの考えと同じようなことになってしまっていると思う。ショーペンハウアー流に比喩すると、ニーチェの世界もその時々によって脚本や仮面は変わっても演じている役者たちは変わらない世界である、ということになっているのではないだろうか。