情報源としての本と判断基準としての現実

真実は人間が認識する以前から存在すると仮定したなら次のことが成り立つだろう。

それは、真実は本以外にも情報源を持つということだ。

逆に言うと本からしかとってこられないような情報は真実でないということでもある。

なぜなら本の記述以外に根拠を持たない情報は現実世界に対応する事実がないからだ。

真実は人間が認識する以前から存在しているとすると、真実は人間とは無関係に現実世界に事実として存在しなくてはならない。

そして現実と照らし合わせて符合する事実がないならば、その記述は真実ではありえない。

つまり本から得た情報はまだ真実であるとは保証されておらず、それは現実と照らし合わせて考える必要があるのだ。

結局のところ、この立場では現実にないことはうそだということになる。

しかしこの「現実にないことはうそだ」という見解も立場を変えると、すなわち人間にとって真実は認識して以降存在するという仮定をするならば常に正しいとも言えなくなる。

というのはその立場に立つなら、私にとって認識されていない情報でも他の誰かにとって認識されていればその人にとって真実として存在していると考えられるからだ。

そもそも最初の仮定で正しいとされた「現実にないことはうそだ」という判断の発言者は神のように現実世界すべてを見渡せる存在でなければならない。

限られた自分の現実しか持てない一人の人間がそのように言ったところで、あなたの現実の範囲にないだけで私の現実にはあるのだとか、あるいはあなたの現実世界と私の現実世界は別世界であるから互いに異なる真実が存在してもいいとかいった反論を受けるだろう。

だからこの立場では「現実にないことはうそだ」という判断は「自分の現実にないことは自分にとってうそだ」と言わなくては正しくない。

そして自分の現実と他人の現実とを直接比較したり交換したりできないから、真実も自分にとっての真実でしかなくなり、真実が必ずしも万人に通用するものではなくなる。

自分にとってうそなことが他の誰かにとっては本当だったり、その逆もありうることになるのだ。

この二つの立場は、絶対主義の立場と相対主義の立場であり、私たち人間はこの二つの立場をケースバイケースで巧みに使い分けているように感じる。

それにしてもこの記事では情報源としての本のあり方について書こうと思ったのだが、あさっての方向に筆が進んでしまった。