因果応報説の起源についての仮説

この記事でこれから述べることは、因果応報説の起源についての仮説である。

最初に因果応報がどういうものか定義すると、原因として善い行いをすれば善い結果が得られ、悪い行いをすれば悪い結果をもたらすとする考え方である。

この考え方は多くの宗教や道徳で見られるものなので知らない人はいないだろう。

私は因果応報説は親子関係に起源を持つのではないかと思っている。

なぜなら親子関係におけるほど因果応報説が通用する場合はないように思えるからだ。

子供がよいことをしたなら親に褒められ、わるいことをしたなら叱られる。

これほどわかりやすい因果応報はないであろう。

そしてこの親子関係における賞罰行為を一般に押し広げたものが因果応報説であるというのが私の仮説だ。

子供にとって親はいわば世界であり、しかも物事の善悪の判断を示す存在でもあり、子供は親に従うことによってのみ生きて行くことができる。

だから子供は親子関係の規範を強力に身につけることになり、成長しても親子関係で培われた価値観から脱却することはない。

ある価値観を以て世界を眺めるとその価値観に合致するものしか見えなくなることは多々あることであり、まして人間社会には因果応報説に則る作り話や美談が溢れている。

だから善いことをしたら善いことが起こり、悪いことをしたなら悪いことが起こるという印象は刷り込まれ強められていく一方である。

これらのことにより因果応報は常に成立すると思い込んでしまうのだ。

もちろんこの段階で因果応報における結果や報いをもたらすとされるものは、もはや親ではない。

善にしろ悪にしろ報いをもたらすのは宗教なら神であり道徳なら世界の「法則」であるということになろう。

ここまで来ると因果応報とはいわば神あるいは世界が親代わりの立場に立つしつけであると解釈できる。

ショーペンハウアーの「人生はどこまでも我々にほどこされる厳格な躾と看做さるべきものである」という考えもこの解釈と同じ起源を持つものであろう。